近年、日本の安全保障をめぐる議論は、かつてないほど急速に「核」という言葉に接近しています。
その象徴とも言えるのが、笹川平和財団が2025年6月に公表した論文『日米同盟における拡大抑止の実効性向上を目指して ―「核の傘」を本物に―』です。
https://www.spf.org/global-image/units/upfiles/592196-1-20250530142537_b68394151b0cd0.pdf
この論文は、中国・北朝鮮・ロシアという核保有国に囲まれ、台湾有事の可能性が現実味を帯びる中で、日米同盟における「拡大抑止」、とりわけ米国の核の傘を、より実効的なものにすべきだという問題意識から書かれています。著者らは、日本は核抑止について「米国任せ」に陥っており、NATOや米韓同盟に比べて、核をめぐる協議や運用面で著しく立ち遅れていると指摘します。
そのうえで論文は、平時から核抑止を含む日米協議体制を整備し、有事におけるエスカレーション管理や核使用を想定した共同計画を策定すべきだと主張します。とりわけ踏み込んでいるのが、非核三原則のうち「持ち込ませず」を見直し、「撃ち込ませず」に転換すべきだという提言です。これは、米国の核兵器の日本への持ち込みや寄港、さらには核共有や核搭載可能な装備の導入までを視野に入れるもので、日本が核運用の枠組みに深く組み込まれることを意味します。
しかし、この提言は、日本が長年にわたり国是として掲げてきた非核三原則を、事実上空洞化させるものだと言わざるを得ません。非核三原則は、単なる政策オプションではありません。唯一の被爆国として、日本が国際社会に示してきた倫理的・政治的な誓約です。「持ち込ませず」は、その象徴的な核心部分であり、これを見直すことは、日本が核兵器を自国の安全保障の中核に据えるという強烈なメッセージを内外に発することになります。
論文では「抑止の実効性」という軍事的合理性が繰り返し強調されますが、核兵器がもたらす壊滅的な人道被害や、地域の緊張を不可逆的に高めるリスクについての考察は、極めて薄い印象を受けます。核抑止を強めれば安全になる、という発想はあまりにも単純であり、誤算や偶発的エスカレーションの危険性を過小評価しています。
絶対に許されない、高市首相側近の“核武装”容認論
こうした核容認・核運用志向の考え方が、学術論文の世界にとどまらず、髙井総理の政策判断に近い環境、すなわち側近や周辺の助言構造の中に存在しているとすれば、それは日本の文民統制の在り方としても、重大な意味を持ちます。核兵器の持ち込みや核共有を現実的な選択肢として捉える立場の自衛隊制服組出身者が、政策形成に影響を及ぼし得る位置にいるとすれば、私たちはその構図を冷静に直視する必要があります。

とりわけ注目すべきは、こうした提言の中核を担っているのが、元自衛隊の高級幹部、すなわち制服組の経験者である点です。彼らは単なる評論家ではなく、政府の安全保障政策に助言を行い得る立場にあり、実質的に政権中枢に近い影響力を持つ存在でもあります。
さらに看過できないのは、この論文の執筆者の一人である元航空自衛隊空将・尾上定正氏が、マスコミとのオフレコ懇談の場で「核を持つべきだ」と発言したとされる点です。仮にこの発言が事実であるならば、それは日本の基本方針と被爆の歴史を根底から揺るがす、極めて問題のある認識です。日本は核兵器を持たないと明言してきた国であり、その立場こそが国際社会における信頼の基盤でもありました。
たとえ非公式の場での発言であったとしても、そのような認識を持つ人物が、総理の政策環境の周辺に存在し、影響力を持ち得る位置にいるという事実は、日本の安全保障政策がどの方向へ導かれつつあるのかを示す重要な兆候です。
非核三原則の堅持は“思考停止”ではない
加えて、論文中で示されている次の認識についても、強い違和感を覚えます。論文は、日本では非核三原則や核共有に関する議論そのものが忌避され、核抑止と核軍縮が「イデオロギー的に二元対立している」と指摘しています。そして、非核三原則のうち「持ち込ませず」は、本来「撃ち込ませず」と言うべきであり、安全保障の論理としては倒錯している、とまで断じています。

しかし、この見方は、日本がなぜ非核三原則を掲げてきたのか、その歴史的意味を根本から取り違えています。非核三原則は、軍事的な効率性のためのルールではありません。被爆国として、日本を核兵器の運用や配備の現場にしないという、極めて重い政治的・倫理的選択です。
「核を撃ち込ませないためには、核を持ち込ませるべきだ」という論理は、一見すると現実的に見えるかもしれません。しかしそれは、日本を核戦争の前線に引き込み、核兵器の運用責任の一端を担わせる道にほかなりません。抑止を強化するどころか、核依存を深め、緊張と不安定さを高める危険な発想です。
核抑止と核軍縮が、日本で慎重に扱われてきたのは「思考停止」だからではありません。核兵器が一度使われたときに何が起きるのかを、現実として知っている国だからこそ、軽々に語らなかったのです。それを「倒錯」と切り捨てる言説には、被爆の歴史への想像力が決定的に欠けています。
非核三原則を障害物のように扱い、核兵器を「使える選択肢」として日本の政策に組み込もうとする流れには、強い警戒が必要です。日本が進むべき道は、核に近づくことではなく、核を使わせない立場を貫くことではないでしょうか。
「核を持たない国」であり続けるのか、それとも「核に依存する国」へと静かに舵を切るのか。日本はいま、その分岐点に立っています。だからこそ、政策文書の行間や、発言の背景にある思想、そして誰がどの立場で総理に助言をしているのかという点に、私たちはより一層、目を凝らす必要があります。
核兵器は、机上の抑止論では済まされない現実を伴います。誰が、どの価値観で、どんな言葉を総理に届けているのか。その透明性こそが、いまの日本に最も求められているのではないでしょうか。
