厳しい寒さが続く中、突如として宣言された「通常国会冒頭解散」のニュースは、私たちの生活に冷たい風を吹き込ませるかのような衝撃を与えました。今回の衆院選にかかる費用が、物価高や人件費の高騰を反映して850億円を超える見通しであるという報道を目にし、多くの国民が「なぜ今なのか」というやるせない思いを抱いているはずです。
この「高市解散」と呼ばれる決断が、実は私たちの民主主義の根幹や、血税の使い道、そして国が取り組むべき喫緊の課題を置き去りにしているのではないかという懸念を、4つの視点から考えてみたいと思います。
1.総理大臣に「いつでも好きな時に解散を決める権限」が本当にあるのか
2.総理大臣の信任投票に解散総選挙を使うことは「議院内閣制の否定」
3.大義なき総選挙に855億円の壮大な無駄遣い
4.物価高対策など重要案件の審議が大幅に遅れる
まず立ち止まって考えたいのは、そもそも総理大臣に「いつでも好きな時に解散を決める権限」が本当にあるのかという点です。
よくメディアでは「伝家の宝刀」や「首相の専権事項」といった言葉が使われますが、憲法学者である九州大学の南野森教授が指摘するように、これは大きな誤解を含んでいます。
憲法7条に基づく解散は内閣の「助言と承認」が必要であり、本来は閣議で全員一致の決定がなされるべきものです。
高市首相が「首相として決断した」と個人の意思を強調する姿勢は、内閣全体で責任を持つという憲法の原則を軽視しているように映ります。首相が自分の都合で自由に衆議院を解散できるという風潮が強まれば、与党に有利なタイミングばかりが選ばれ、国会による権力のチェック機能が失われてしまう危険性があります。
次に、この解散の目的そのものが「議院内閣制」の否定に繋がっているのではないかという強い懸念があります。
高市首相は「私に国家経営を託していただけるのか、直接判断を仰ぎたい」と述べていますが、日本の制度は国民が総理大臣を直接選ぶ大統領制ではありません。
私たちはあくまで国会議員を選び、その代表者が集まる国会で首相が選ばれるというステップを踏むのがルールです。それを飛び越えて、まるで個人への「人気投票」や「信任投票」のように選挙を利用し、その後の白紙委任を求めるような姿勢は、議院内閣制の精神をゆがめる憲法違反に近い行為だと言わざるを得ません。
具体的な政策内容やプロセスを国民に十分に説明せず、イメージだけで審判を仰ごうとするのは、あまりに不誠実な手法です。
そして、この「大義なき解散」に投じられる莫大なコストを、私たちは決して見過ごすことはできません。
衆院選に費やされる約855億円という巨額の血税は、日々の物価高に苦しみ、子育てや生活に不安を抱える人々のためにどれほど有意義に活用できたでしょうか。
さらに、大阪では知事選に約23億8000万円、市長選に約4億7000万円が投じられます。吉村知事は衆院選と同日にすることでコストを抑えたと説明していますが、そもそも「出直し」という形で行われるこれらの選挙費用そのものが、政治家の自己都合による出費であることに変わりはありません。
ネット上で「はらわたが煮えくり返りそうだ」という怒りの声が上がるのは、国民の生活実感を無視した究極の無駄遣いだと感じているからに他なりません。
最後に、選挙後の国会運営に目を向けると、この解散がいかに国家の歩みを止めてしまうかが分かります。
令和8年の通常国会はわずか1日で閉会してしまい、選挙後には特別国会が開かれますが、そこではまず総理指名や組閣が行われるため、予算案の審議は大幅に遅れることになります。
予算成立がゴールデンウィークを過ぎるようでは、物価高対策や国防、外交、さらには首相が意欲を示していた憲法改正の議論さえも、十分な時間を確保することは不可能です。
自分への信任を確かめたいという「自己満足」の裏側で、国のために働くべき国会の時間は失われ、重要な法案審議がなおざりにされています。この解散の結果、本当に得をするのは誰なのか、私たちは投票所へ向かう前に厳しく問い直す必要があります。
中道は“解散権の明確化、国民置き去りの衆院解散に歯止め”と主張
中道改革連合は、衆院選マニフェストに「解散権の明確化、国民置き去りの衆院解散に歯止め」という一文を明記したことは、いまの日本政治が抱える歪みに正面から向き合う、極めて重要な問題提起です。
衆議院の解散は、内閣が国民の信を問うための制度であり、本来は民主主義を健全に保つための重い権限です。 しかし近年、その解散が、総理大臣の個人的な都合や、与党内の事情、党利党略によって使われているのではないかという疑念が、国民の間に広がっています。
今回の衆院選にかかる公費は、実に855億円に上ります。これは一政党や一政治家のものではなく、私たち国民一人ひとりが負担している大切な税金です。
その重みを考えれば、解散という判断が、十分な説明もなく、国民の生活実感や社会課題とは無関係に行われることは、決して許されるものではありません。選挙は「政治家のためのイベント」ではなく、「主権者である国民が意思を示す場」であるはずです。そこが私物化されるようなことがあっては、民主主義そのものへの信頼が揺らいでしまいます。
現行憲法のもとで、衆議院の解散権は内閣に広く委ねられています。そのため、「いつ解散するのか」「なぜ今なのか」という判断が、どうしても総理の裁量に依存してきました。
れが政治の安定を損ね、国会審議の空洞化や、政策論争よりも選挙日程を優先する政治文化を生んできた側面は否めません。国民の多くが「またか」という疲労感を抱く背景には、こうした構造的な問題があります。
だからこそ、中道改革連合が掲げる「解散権の明確化」は、単なる制度論にとどまらず、民主主義の原点を問い直す提案だと言えるでしょう。どのような条件のもとで解散が認められるのか、国民に対する説明責任をどう果たすのか。こうしたルールを明確にすることは、解散権を縛るためではなく、むしろ政治への信頼を回復し、真に必要な場面で国民の判断を仰ぐための土台づくりです。
衆議院は、国民の多様な声を反映する場であり、衆議院の解散は、その声を一度リセットする行為でもあります。だからこそ、その判断には最大限の慎重さと、国民への誠実な説明が求められます。八五五億円という巨額の費用を伴う選挙を、軽々しく「政治の戦術」として扱うことは、国民生活を軽んじることに他なりません。
解散権の在り方を見直すことは、政治を縛ることではなく、政治を国民の手に取り戻すことです。国民が置き去りにされない政治、生活者の視点に立った政治を実現するために、制度の透明化とルールの明確化は欠かせません。中道改革連合が示したこの問題提起が、与野党を超えた真剣な議論につながり、日本の民主主義を一段成熟させる契機となることと確信します。
