新庁舎建設が進む日立市役所の山側、高台にある旧日鉱金属諏訪台社宅跡地の一角に、高さ約1メートルほどの石碑があり、そこには“桜塚”との文字が刻まれています。自然石でその文字の下方に「大正6年春(1917年)角弥太郎氏諏訪台に桜樹を植う 昭和9年4月10日」とあります。これが、日立製作所日立工場の当時工場長であった高尾直三郎が建てた“桜塚”です。
大正4年頃、鉱山の煙害対策用として、大島桜が現在の東海村石神農場で育苗されていました。この大島桜に接ぎ木して、多くの染井吉野の苗木が作られました。こうしてつくられた染井吉野の苗木約1200本が鉱山の社宅である諏訪台、杉本、大雄院、掛橋の地域に植えられました。
これが日立市の住宅地に植えられた染井吉野の原点です。もちろん少しの本数を個人が住宅周辺に植えたものもあったかも知れませんが、計画的に大量の本数を植えたのはこれが最初でしょう。
諏訪台の桜はこうして鉱山の人たちによって植えられ、成長し、日立の桜名所の最初のものとなりました。桜塚に大正6年と刻まれた時から100年、今年は日立の染井吉野100年の節目の年です。
諏訪台とは、市役所裏手から西の方、鹿野場団地東端付近までの台地上を指します。桜塚前の道路を境に海側を下諏訪台、これより山側の諏訪台貯水池付近までを上諏訪台と称していました。
ここはかつて、日立鉱山や日立製作所の役宅(役職者用社宅)が並ぶ、いわば日立の高級住宅街でした。時とともに住む人びとは移り変わっても、ここは昔から今までずっと変わらない桜の名所です。
桜のまち日立の原点、染井吉野が植えられて満100年
日立市発展の原点である日立鉱山は、明治末期からの発展とともに煙害も深刻となり、 森林や地域の田畑は大きなダメージを受けました。日立鉱山は、1914年(大正3年)に大煙突を立てて煙を減少させるとともに、 山林自然の復興に尽力しました。煙に強いクロマツやアカシア、オオシマザクラを1000万本も植え、緑を回復したのです。 このとき植えられた260万本のオオシマザクラが、日立の桜の原点となりました。今でも大煙突周辺をはじめ、たくさんのオオシマザクラが見られます。
1915年(大正4年)3月、大煙突の使用開始により煙害の状況が一変すると、日立鉱山の所長角弥太郎は、自然環境を回復させるための植林を開始させました。
その春から、大煙突周辺から神峰山、本山方面へと1919年春までに大島桜を中心とする植林を行い、その面積は360町歩に及びました。1920年からは、大白峰稜線から陰作沢方面の陰作国有林、金山方面の鹿子作国有林、大煙突東側の三作国有林などを対象として、1924年までに杉、黒松、大島桜を植え付け、その面積は400余町歩に及びました。引き続いて手入れ、刈り払いを行い、1932年(昭和7年)で一連の植栽工事を完了しました。
このおよそ18年間にわたる植林の面積は延1200町歩に達します。植えられた苗木の数は、概算で500万本以上です。また、この植林事業の中で、大島桜の植栽面積は、合計595町歩と報告されています。もし、仮に砂防植栽と同様に1町歩4300本の割で植えられたとすれば、その苗本の数は260万本に達することになります。
日立鉱山自前の植林の展開と同時に、周辺地域の希望者に対する苗木の無償配布も大規模に行われました。1915年度(大正4年)の日立村ほか17か町村に対する29万本をはじめ、1937年度(昭和12年度)までの23年間に、約500万本が無償供与されました。この中には大島桜72万本が合まれています。
大島桜の苗木がうまく育つようになると、農場の担当者はこの苗木に染井吉野の苗を接ぎ木して、桜の苗木を多量に作りだしました。角は、この花の美しさに着目して、1917年(大正6年)から、社宅地域、学校、道路、鉱山電車線路沿いなどに、染井吉野の苗約2000本を植えさせました。これが、日立市の春を彩る染井吉野の群落のルーツです。
その後、農場からは、引き続いて、大島桜をはじめとする耐煙樹種の苗木と、この染井吉野の苗木が生産され、市内各所に植えられるようになりました。そして今日では、春の日立の街を歩くと、あちらでもこちらでもその美しさを目にすることができるようになったのです。
このように日立市の染井吉野は、単に春の美しい花というだけでなく、その裏に、地域の煙害克服の歴史と、環境回復の悲願のもとに懸命の努力を重ねた人々の歴史が秘められています。染井吉野は、それらの歴史の象徴としての役割も担って、日立市の春を爛漫と彩っているのです。
(このブログは、日立のさくらネットワークの「日立のさくらの歴史」をもとにまとめました。http://h-sakura.serio.jp/rekisi/rekishi21.html)