数ある金属の中でも、鉄に次いで幅広い用途で活用されているのが銅です。高い導電率、優れた熱伝導性、抗菌作用などの特性を持ち、その活用範囲は産業や人々の生活のあらゆる領域に及んでいます。
日本における本格的な銅の採掘の歴史は、江戸自体の足尾銅山(現栃木県日光市)、別子銅山(現愛媛県新居浜市)の発見に遡ります。足尾鉱山は、1610年から1759年の間に121,794t の銅を産出しました。一方、別子鉱山は 1691年から1867年の間に98,341tの銅を産出しました。両鉱山を合わせた生産ピークは1702年から1714年間頃で、年平均2,831tの銅を生産しました。
両鉱山とも開山後数十年で最盛期を超え、技術的問題から、生産は減少していきました。
明治35年(1902年)頃までに、ほぼその基礎を確立した我が国の金属鉱業は、日露戦争(1904~1905年)、第 1 次世界大戦(1914~1918年)による国内市場の拡大と海外市場の好況によって、その規模を急速に拡大します。特に、足尾鉱山、別子鉱山に加え、小坂鉱山(愛媛県新居浜市)、新興の日立鉱山(茨城県日立市)の4つの銅山の発展はめざましく、日本の四大銅山と称されました。
この四大鉱山は、鉱山が存在する地域社会にも大きな影響を与えました。人口の増加、電気、水道、下水、そして鉄道などの社会資本の充実など、その地域は大きく発展しました。一方、銅の生産やその精錬による河川の汚染や大気汚染(煙害)は深刻な被害を周辺環境や住民にもたらしました。地域社会の発展と環境破壊、その相反する課題を解決してきた過程が、こうした地域の歴史でもあります。
そして、銅鉱山は20世紀後半に、その役割を終え相次いで閉山していきます。大いに発展した四大鉱山のまちは、地域経済の縮小、人口減少という厳しい現実を抱えて21世紀を迎えました。
四大鉱山の歴史を学び、その教訓を後世に繋ぐことは、次の世代への大きな責任です。そして、その貴重な遺産は、地域の活性化の大きなツールとなります。
このブログでは、日本の四大銅山(足尾鉱山、別子鉱山、小坂鉱山、日立鉱山)を概観してみます。第2弾は、秋田県小坂町の小坂鉱山です。
【小坂鉱山の概要】
小坂鉱山は、1861年に金、銀の鉱山として開発が始まりました。1884年には大阪に本拠地を置いた「藤田組」に払い下げられ民営化されました。藤田組は、現在のDOWAホールディングスや藤田観光の前身です。
藤田組は山口県萩出身の藤田伝三郎の起した企業。伝三郎の3兄弟によって経営されていました。小坂鉱山を実質的に担当したのは、伝三郎の兄の久原庄三郎(養子に出ており姓が異なっています)で、小坂鉱山は銀の生産で一時隆盛を極めます。1901年には、銀の生産高が日本一の鉱山となりました。
しかし、銀鉱石の枯渇により急激に業績は悪化、ついに閉山に危機に直面します。その閉山処理のために派遣されたのが、庄三郎の子・久原房之助でした。当時、28歳であった久原房之助は、現地に常駐すると閉山業務ではなく、石見銀山から優秀な人材を技師長に迎え、地元小坂出身の有能な人材を重用して、銅の精錬法の開発に積極的にあたらせました。
久原房之助は小坂鉱山に眠っていた黒鉱に着目。黒鉱は、方鉛鉱、セン亜鉛鉱、四面銅鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、重晶石、石英などからなり、緻密で塊状の黒色鉱石です。金・銀を伴うものもあります。黒鉱鉱床は特に東北地方の日本海側に分布しグリーンタフに伴って産出されます。金・銀・銅などを分離するのに多くの燃料を使うのため、コストがかさみ、当時は商業的に見捨てられていました。
久原房之助は「鉱山を潰すつもりであれば、どんなことでもできる」と言い切り、新たな精錬法(自熔製錬法)の開発に着手しました。
この努力が実を結び、明治35年(1902年)精錬所が完成し、稼働を開始しました。その前年には、「鉱毒濾過装置」も開発しました。久原房之助の卓越性は、公害防止装置を「あらかじめつくった」という点です。公害防止装置を、銅の精錬の一工程として考えていた証左です。
この結果、小坂は一躍世界有数の銅鉱山に飛躍しました。久原房之助率いる技術者集団は、鉱脈の探査、鉱石の採掘、運搬、精錬、廃棄物の処理、それらに必要な上下水道や電気、働く人たちのための生活基盤の整備、こういったありとあらゆることをすべて小坂という地域に実装しました。
働く人びとの生活基盤として、住宅を整え、購買施設を準備し、病院をつくり、公園や劇場をつくりるという計画を立て、実現に向け動き出しました。まさに、この地にユートピアを実現しようとしたのです。
1902年に新たな精錬所が稼働すると、鉱山の煙害が深刻化していきます。1967年まで続いた被害は、国有林分だけでも5万ヘクタール以上に及んでいます。森林を回復させるために煙害に強く痩せた土地でも生育するニセアカシアの植林が行われ、植栽面積は1964年までに570ヘクタールにのぼっています。こうした経緯を経てニセアカシア(アカシア)は小坂町の花となり、1984年からはアカシア祭りが行われるようになりました。
【小坂銅山から日立銅山へ、久原房之助の独立】
久原房之助は、10年あまり小坂鉱山で過ごし、小坂鉱山に理想郷を作る覚悟を決めていました。しかし、明治37年に藤田組の本社から呼び戻され、不本意ながら小坂を去ることになります。藤田組の当主・藤田伝三郎は、久原房之助が小坂鉱山を私物化するのを恐れ、その才覚を妬んだともいわれています。
藤田組を経営していたのは、藤田鹿太郎・久原庄三郎・藤田伝三郎の3兄弟でした。藤田組を創業したのは、末子の藤田伝三郎であり、藤田伝三郎が社長でした。そこで、藤田伝三郎は、自分が藤田家の宗家となり、藤田伝三郎の家系が藤田組を継承していくことを明記する家憲を定め、久原庄三郎と藤田鹿太郎の家系は副社長を世襲させようとしました。藤田鹿太郎は既に死去し、藤田小太郎が家督を継いでいましたが、藤田小太郎は病弱でおとなしい性格だったので、後見人の藤田伝三郎に任せていました。久原房之助の実父・久原庄三郎は明治38年3月に、房之助に家督を譲り隠居しました。久原房之助は、有能な者が会社を継ぐべきとして、藤田組の藤田伝三郎の家系による世襲制に反対し叔父・藤田伝三郎と対立。久原房之助と藤田小太郎は藤田組を離れることになりました。
藤田伝三郎は、明治の元勲・井上馨らに財産分与の査定を依頼。井上馨らは、小坂鉱山を約2000万円と査定しました。そして、この2000万円を藤田伝三郎・武田恭作・久原房之助・藤田小太郎の4人で均等割にして、藤田伝三郎が10年分割で支払うことになりました。久原房之助は約500万円を受け取り、小坂を離れることになしました。
明治38年(1905年)、久原房之助は、日立市の赤沢銅山を買収。新たな地に理想の鉱山をつくるため、新天地日立に向かいました。
日立鉱山が操業を開始して間もなく、その新たな鉱山の開発は断層(破砕帯)に突き当り、作業が行き詰まります。当時の現場責任者は「心誠意十分に考慮の末、止めることを勧告する」とまで言い出し、結局、創業2年目で主な部下を引き連れて日立鉱山を去ってしまいます。日立鉱山は約50人ほど居た職員が30人足らずとなり、経営の危機を迎えます。
この最大のピンチを救ったのは、久原房之助と小坂鉱山時代にともに働いた小平浪平、角弥太郎など「小坂勢」と呼ばれる40人以上の青年人材でした。
小坂勢の小平浪平は、工作課長として、日立鉱山の電力・機械・土木関係を一手に引き受けました。そして、電力の需要増大を見越して、石岡第一発電所を提案しました。また、輸入に頼っていた機械の修理を手がける一方で、修理することによって原理や技術を学び、国産初の発電機の開発に成功しました。久原房之助は、小平浪平の熱意を認めて、機械製造業の進出を承諾。こうした誕生したのが日立製作所です。日立製作所は、1920年に久原鉱業所から完全に独立することになります。
角弥太郎は、久原房之助の命を受け、煙害問題を住民との対話で克服し、荒廃した周辺環境を元に戻す努力を進めました。社宅の建設、病院、学校、鉱山電車など工業都市・日立の基盤を作りました。
【小坂銅山の発展と地域の発展】
一方、藤田組は、小坂鉱山を理想都市に発展させたいという強い意志のもと、1905年に巨費を投じて豪壮華麗な「旧小坂鉱山事務所」を建設しました。まさに旧小坂鉱山事務所は日本一の大鉱山のシンボルでもありました。
1910年には、鉱山労働者の福利厚生施設として「康楽館」が建設されました。近代の芝居小屋のうち、伝統的な形式を踏襲しつつ、優れた洋風意匠を取り入れた現存最古のものとして歴史的価値が高い建物です。現在でも、回り舞台を有する常設の芝居小屋として活用されています。
また、小坂鉱山の鉱石輸送のため1909年に創業された小坂鉄道は、2007年まで運行されました。廃線後、2014年に小坂駅を活用した「小坂鉄道レールパーク」がオープン。「小坂鉄道レールパーク」は、レールバイクの乗車体験、ブルートレインの宿泊施設、貴重なディーゼル機関車の動態保存など、特徴ある町おこし拠点となりました。
生産設備の近代化等により、銅の生産は飛躍的に伸張します。1907年には銅の産出量が日本一に、その産出額は秋田県の年間予算の8倍強となりました。
【閉山後の小坂銅山】
しかし、第二次世界大戦後は、資源の枯渇等を理由に採掘が一端中断されました。1960年代に入り新鉱脈が発見されると採掘を再開しましたが、1990年で採掘を終了し、閉山しました。
2007年小坂鉱山は、新しい取り組みとして「リサイクル製錬」を始めます。そもそも、小坂鉱山の発展の基は、「黒鉱」という鉱石です。これには、金、銀、銅などたくさんの鉱物が入っています。そこから銅を取り出すことで、飛躍的に発展しました。この積みあげた技術をもとに「TSL炉」を開発。携帯電話やパソコンなどの電子機器には、様々な金属(レアメタル)で構成されています。こうした機器を分解し、資源を改めて回収する=都市鉱山に小坂鉱山は生まれ変わりました。
参考資料
DOWAホールディングスHP「沿革」
https://www.dowa.co.jp/jp/about_dowa/history.html
小坂町ホームページ「町のあゆみ」
https://www.town.kosaka.akita.jp/kurashi_gyosei/chosei_machizukuri/machinogaiyo/2/index.html
高橋清美「鉱山経営と経営信条」
https://core.ac.uk/download/pdf/323272403.pdf