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ひたみち日記

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日本の四大銅山をみる③/「足尾銅山」栃木県日光市

管理者 2022年8月17日

足尾銅山
 数ある金属の中でも、鉄に次いで幅広い用途で活用されているのが銅です。高い導電率、優れた熱伝導性、抗菌作用などの特性を持ち、その活用範囲は産業や人々の生活のあらゆる領域に及んでいます。
 日本における本格的な銅の採掘の歴史は、江戸自体の足尾銅山(現栃木県日光市)、別子銅山(現愛媛県新居浜市)の発見に遡ります。足尾鉱山は、1610年から1759年の間に121,794t の銅を産出しました。一方、別子鉱山は 1691年から1867年の間に98,341tの銅を産出しました。両鉱山を合わせた生産ピークは1702年から1714年間頃で、年平均2,831tの銅を生産しました。
 両鉱山とも開山後数十年で最盛期を超え、技術的問題から、生産は減少していきました。
 明治35年(1902年)頃までに、ほぼその基礎を確立した我が国の金属鉱業は、日露戦争(1904~1905年)、第 1 次世界大戦(1914~1918年)による国内市場の拡大と海外市場の好況によって、その規模を急速に拡大します。特に、足尾鉱山、別子鉱山に加え、小坂鉱山(愛媛県新居浜市)、新興の日立鉱山(茨城県日立市)の4つの銅山の発展はめざましく、日本の四大銅山と称されました。
 この四大鉱山は、鉱山が存在する地域社会にも大きな影響を与えました。人口の増加、電気、水道、下水、そして鉄道などの社会資本の充実など、その地域は大きく発展しました。一方、銅の生産やその精錬による河川の汚染や大気汚染(煙害)は深刻な被害を周辺環境や住民にもたらしました。地域社会の発展と環境破壊、その相反する課題を解決してきた過程が、こうした地域の歴史でもあります。
 そして、銅鉱山は20世紀後半に、その役割を終え相次いで閉山していきます。大いに発展した四大鉱山のまちは、地域経済の縮小、人口減少という厳しい現実を抱えて21世紀を迎えました。
 四大鉱山の歴史を学び、その教訓を後世に繋ぐことは、次の世代への大きな責任です。そして、その貴重な遺産は、地域の活性化の大きなツールとなります。
 このブログでは、日本の四大銅山(足尾鉱山、別子鉱山、小坂鉱山、日立鉱山)を概観してみます。第3弾は、日本の公害の原点ともいわれる栃木県日光市の足尾鉱山です。

日本の4大銅山の生産量
4大銅山の生産量の推移


【足尾銅山の概要】
 足尾鉱山は、我が国を代表する鉱脈型銅鉱山で、その規模も 大きく、江戸時代に隆盛を迎え、技術の後れなどから一度衰退したが、明治期に古河鉱業が経営に参画し、近代技術を積極的にとり入れ、再度、我が国を代表する鉱山となりました。
 足尾銅山は16世紀後半には現在の栃木県南西部、佐野市域を拠点とする佐野氏により採掘されていたと考えられています。慶長15年(1610年)以降徳川幕府直轄支配となり、銅山奉行の代官所が設置され開発が進められました。
 江戸時代における足尾銅山の最盛期は17世紀中頃で、年間1300t以上の生産量を維持し、1684年の生産量は1500tに達しました。
 寛保~延享期(1741~1748年)に至り産銅量が減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となってしました。

足尾鉱山
 明治期に入ると、1872年(明治5年)に民間に払い下げられ、1877年(明治10年)に古河市兵衛が廃鉱同然の足尾銅山を買収し経営に着手しました。
 1881年の鷹之巣直利(富鉱)、1884年の横間歩大直利の発見により、状況は一転します。古河市兵衛は大直利の発見以降、次々と西洋の先端的な技術を取り入れることで生産量を増やし、1884年(明治17年)に国内1位の産銅量を記録して以来、大正前期までその地位を確保し続けました。
 採鉱システムの技術革新に伴い銅山は発展し、1916年(大正5年)には年間産銅量が1万4000tを超え、足尾町の人口も増えて38,428人に達しました。人口増加とあわせて町には鉱山住宅、鉱山病院、学校及び生活物資の販売所(三養会)など、古河による就業者とその家族のための諸施設が整えられ、栃木県下第2位の人口規模を誇る鉱山都市が形成されるに至りました。1914年から1918年にかけての第一次世界大戦は日本に空前の好景気をもたらし、この後押しによりさらなる成長を遂げた古河は事業を多角化し、財閥を形成することとなりました。
 足尾銅山の急激な拡大は、深刻な鉱害問題を引き起こしました。日本で初めての「鉱害問題」として有名な「足尾鉱毒事件」です。足尾銅山は1973年に閉山しましたが、この問題をきっかけに始まった渡良瀬川の治水事業や松木地区の緑化・治山事業は、現在も続けられています。

足尾鉱山
【日本の鉱害問題の原点/足尾鉱毒事件】
 足尾銅山の急速な近代化によって生じた問題が、「足尾鉱毒事件」です。
 足尾銅山における鉱害とは、採鉱、選鉱、製錬の過程で発生する廃棄物(廃水、廃石、鍰)中の有害物質を含む土砂の流出と、製錬排煙(亜硫酸ガス)により裸地化した松木地区を中心とした地域から流出する土砂が複合した渡良瀬川流域における環境問題であり、わが国初の公害事件です。
 足尾は狭隘な山間部にあり、かつ渡良瀬川の最上部に位置するという立地条件は、他の銅山に比べ被害をより深刻なものとしました。1890年(明治23年)に起きた渡良瀬川の大洪水による足尾銅山下流域の農作物被害が契機となって、鉱害問題が顕在化し、さらに1891年の第二回帝国議会において、田中正造が鉱害問題に対する質問をおこない、やがて大きな社会問題となりました。
 銅の製錬所から放出された鉱毒は足尾一帯の山を禿山にしました。製錬の残渣は100万平方メートルを超える堆積場を次々と埋め尽くし、今日までの総量では1000万立メートルを超えました。禿山にされた山は保水力を失い、雨が降れば簡単に洪水となりました。そして、洪水は堆積場を襲って、鉱毒を下流に押し流しました。時には、降雨にまぎれて、意図的に堆積場から鉱毒が渡良瀬川に流され、栃木、群馬の約1600の市町村で田畑の被害が生じ、流域の多数の漁民、農民の健康と生活を奪った事実もありました。
 加害者である古河が被害に対する賠償金を最初に払ったのは、1982年の洪水で著しい被害が出た後でのことでした。その翌々年1894年には、被害はますます激しくなり、古河は再度示談金を払うことになりました。その時、古河が作成し農民側に署名を求めた契約書には、「同銅山御稼業により常時不時を論ぜず、鉱毒、土砂、その他渡良瀬沿岸我等所有の土地の迷惑になるべき何等の事故相生じ候とも、損害賠償その他苦情がましき儀一切申し出まじく候」と書かれていました。
 1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となりました。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して廃村となりました。
 こうして、被害はさらに拡大していきましたが、それでも、歴代の政府は富国強兵の基本原則を曲げず、足尾銅山の庇護を続けました。疲弊しきった農民・漁民は、東京に向けて数度にわたる「押出し」をして救済を訴えましたが、政府は警察力を使って、住民を弾圧、投獄しました。
 当時、渡良瀬川は、江戸川となって、東京に流れ込んでいましたが、鉱毒が東京に流れ込むのを嫌った政府は、埼玉県関宿で渡良瀬川を利根川に付け替えるとともに、鉱毒溜めの池・渡良瀬遊水池を作るため、栃木県谷中村を水没させることにしました。1907年に谷中村が強制廃村となりました。
 その後も、渡良瀬川は、1926年、1936年、1947年、1948年、1949年、1958年と大洪水を繰り返し、鉱毒被害を沿岸地域に拡大しました。

足尾鉱山植林事業
【戦後の足尾銅山と世界遺産登録の取組】
 戦後の足尾銅山の産銅量は、最盛期の産銅量には遠く及びませんでした。選鉱部門については、1947年に重液選鉱法が、戦後わが国の鉱山では初めて実用化されました。製錬部門については、フィンランドのオートクンプ社の自熔製錬法を導入し、1956年から自熔製錬が開始され、電気集塵法及び接触硫酸製造法を応用した脱硫技術が世界で初めて実用化し、排煙対策に終止符を打ちました。
 また、渡良瀬川の治水対策は、1954年、松木川、仁田元川、久蔵川の三川合流点に足尾砂防堰堤が竣工しました。また、1977年に、足尾砂防堰堤の約20km下流に草木ダムが完成し、土砂流出の渡良瀬川への影響は大幅に緩和されました。
 1973年、足尾銅山は閉山の日を迎えました。
 現在でも、坑内等廃水処理は中才浄水場で続けられ、処理の段階で発生する廃泥はポンプにより簀子橋堆積場に送られています。
 煙害により荒廃した松木地区の治山・緑化事業は、昭和30年代より徐々に治山工事と緑化工事の効果が現れ、現在では広範囲に緑が蘇りつつあります。
 さらに国民の環境に対する意識の高揚から、植樹に対する関心が高まり、1996年に足尾に緑を育てる会の活動が始まり、植樹活動が続けられています。

 足尾銅山は、国内最大の銅山として日本の近代化・産業化に大きく貢献しましたが、同時に、社会問題化した公害も発生しました。明治以降の日本の近代化と産業化に大きく貢献したと同時に、日本で初めて社会問題化した公害とその対策の歴史でもあり、世界的にみても鉱業の発達とそれに伴う環境破壊とその対策の経緯といった視点で評価された遺産はなく、極めて稀な事例と考えらることから、日光市は『足尾銅山ー日本の近代化・産業化と公害対策の起点ー』を「世界文化遺産国内暫定一覧表」へ追加記載をするため、栃木県と共同で提案書を平成19年に文化庁へ提出しました。現在も官民挙げて、足尾銅山を世界遺産登録する取り組みが進められています。

参考資料:
日光市「足尾銅山の世界遺産登録に向けて」
https://www.city.nikko.lg.jp/bunkazai/gyousei/shisei/sekaiisan/index.html
日光市教育委員会事務局文化財課世界遺産登録推進室「足尾鉱山の歴史」
https://www.city.nikko.lg.jp/bunkazai/ashiodouzannorekisi.html
小出裕章「足尾鉱毒」京都工芸繊維大学、物質開発倫理学3(2007/12/25)
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/kouen/kksd3.pdf

四大鉱山年表

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井手よしひろです。 茨城県の県政情報、 地元のローカルな話題を 発信しています。 6期24年にわたり 茨城県議会議員を務めました。
一般社団法人地方創生戦略研究所
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