家族のかたちが大きく変わりつつある現代において、「結婚したら同じ姓を名乗るべきなのか、それとも選べるようにすべきなのか」という問いは、もはや一部の人だけの問題ではありません。
法律で夫婦同姓を義務付けている国は、現在では日本だけと言われています。
法務省の把握によると、世界の中で夫婦同姓を法律で義務付けている国は日本以外には存在しないとのことです。
かつてはドイツ、スイス、オーストリアなどの国々も夫婦同姓を義務付けていましたが、女性差別撤廃条約の批准などを機に法改正を行い、現在では多くの国が「選択的夫婦別姓」を導入しています。例えばドイツでは、同姓、別姓、連結姓(両方の姓を繋げたもの)から選択が可能になっています。
働き方が多様化し、男女ともに社会で役割を担う時代において、氏名は単なる呼び名ではなく、その人が積み重ねてきた人生やキャリア、そして人格そのものと深く結びついています。だからこそ、婚姻を理由に一方が当然のように改姓を強いられる現行制度は、いま改めて問い直されなければなりません。
選択的夫婦別姓制度は、「夫婦は必ず別姓にせよ」という制度ではありません。これまで通り同姓を選びたい夫婦は同姓を選び、別姓を望む人にはその選択肢を認める――ただそれだけの、極めてシンプルで自由度の高い制度です。それにもかかわらず、日本では30年近く前に法制審議会が導入を答申して以降、実現には至っていません。その間にも、改姓によるキャリアの断絶、各種手続きの煩雑さ、心理的な負担を訴える声は積み重なり、実際に改姓する人の約9割が女性であるという現実は、制度が事実上、特定の性に負担を集中させていることを示しています。
政府はこれまで、こうした不便を緩和するためとして「旧姓の通称使用」を拡大してきました。運転免許証やパスポート、住民票などへの旧姓併記が進められ、民間企業でも通称使用を認める動きが広がっています。しかし、通称使用には明確な限界があります。税務手続きは戸籍名が原則であり、銀行口座の開設では追加の説明や書類を求められることが少なくありません。海外では通称という概念自体が通用せず、ビザ取得や航空券購入でトラブルが生じる例も後を絶ちません。通称使用は、あくまで「その場しのぎ」であり、氏名に関する根本的な不自由さを解消する制度ではないのです。
そもそも氏名は、個人の尊厳や人格と不可分のものです。婚姻によって姓を変えない自由を認めることは、「自分らしく生きる権利」を守ることに直結します。国連の女子差別撤廃委員会が、日本に対して繰り返し制度の是正を勧告してきたのも、現行制度が国際的な人権基準から見て問題を抱えているからにほかなりません。経団連が選択的夫婦別姓の早期実現を求める提言を行ったことも、この問題が個人の生き方にとどまらず、企業活動や国際競争力にまで影響を及ぼしている現実を示しています。

旧来の家族観に縛られ、選択の自由にブレーキをかける高市内閣
こうした中で、今年の通常国会では、選択的夫婦別姓に関する法案が28年ぶりに国会審議の場に上がり、ようやく議論が前に進み始めたかに見えました。
しかし、その流れに冷や水を浴びせたのが、高市早苗政権の発足です。自民党と日本維新の会の連立政権合意には、「旧姓の通称使用の法制化」が明記され、来年の通常国会での成立を目指す方針が示されました。高市首相自身も、従来から旧姓使用の拡大を持論としてきました。
通称使用を法制化すること自体が、ただちに悪いわけではありません。しかし、それが「選択的夫婦別姓に代わる解決策」であるかのように位置づけられるなら、話は別です。通称使用を制度として固めることで、「これで十分だ」「これ以上の制度改革は不要だ」という空気が広がれば、別姓を望む人たちの根本的な問題は、再び置き去りにされてしまいます。せっかく国会で深まりつつあった議論が、後退しかねない――そこに強い危機感を覚えます。
「家族の中に異なる姓があると一体感が失われる」という反対意見も、よく耳にします。しかし、同じ理屈を当てはめるなら、通称使用によって家庭内で複数の姓が使われる状況でも、一体感は損なわれるはずです。実際には、家族の絆は姓の一致によって自動的に生まれるものではなく、日々の関係性や支え合いの中で育まれるものです。法務省自身も、婚姻時に夫婦のどちらかの姓の選択を法律で義務づけている国は、日本だけだとしています。それでも、日本が他国より特別に家族の絆が強いとは、誰も言い切れないでしょう。
夫婦別姓に否定的な意見の背後には、妻は家庭に入り、家事や育児を担うという、かつての家族像への無意識のこだわりが見え隠れします。しかし現実には、共働き世帯や単身世帯は増え続け、家族のあり方はすでに多様化しています。古びた役割分業意識は、社会で活躍し、経済的に自立したいと願う女性たちにとって、大きな足かせでしかありません。
選択的夫婦別姓制度は、誰かの価値観を否定する制度ではありません。同姓を望む夫婦には何の影響もなく、別姓を望む人にだけ選択肢を開く制度です。夫婦同姓で旧姓を通称として使う生き方も、夫婦別姓という選択も、当事者の意思で自由に選べる社会こそが、成熟した民主社会の姿ではないでしょうか。
いま問われているのは、「通称使用でお茶を濁す」のか、それとも「選択の自由」を正面から認めるのか、という政治の姿勢そのものです。高市政権のもとで、議論が後戻りすることのないよう、私たちは改めてこの問題に目を向け続ける必要があると強く感じています。
