2026年の元日。
新聞をめくりながら、新しい年を迎えた実感とともに、どこか胸の奥に小さな引っかかりを覚えました。
それは、元日の地元紙・茨城新聞に掲載されていた、劇作家・平田オリザさんのインタビュー記事でした。

見出しは
「伝わらないことから…対話で価値観すり合わせ」。
丁寧な文章の中で、とりわけ結論部分が、喉に刺さった小骨のように、読み終えた後も残り続けました。
私たちはどこかで「最後は自由と民主主義が勝利する」との幻想を抱いている。
だが、それは対話が成り立つ世界が土台だ。
一方的に対話を拒否する者が増え、おかしいと皆が感じなくなれば、自由と民主主義は機能不全に陥ってしまう。
世界各地に不寛容の兆しが表れている。
「ポイント・オブ・ノー・リターン」(帰還不能点)の手前で踏みとどまれるかどうか、2026年は試される年になるだろう。
この「ポイント・オブ・ノー・リターン」という言葉が、今年の始まりに強く心に残りました。
直訳すれば「帰還不能点」。
映画や小説のタイトルのような響きがありますが、もともとは航空機や船舶の航行で使われてきた、きわめて現実的な専門用語です。燃料の残量を計算した結果、出発地点へ引き返すことが物理的に不可能になる地点。そこを越えたら、もう後戻りはできません。何があっても前に進むしかない、覚悟を迫られる地点です。
この言葉は、いまやビジネスや社会、そして私たち一人ひとりの人生にも使われるようになりました。
投資や労力が積み重なり、もはや中止や撤回が現実的でなくなった局面。
「引き返せない」という事実は、同時に「その先の結果を引き受ける責任」を意味します。
近年では、環境問題の文脈でも頻繁に使われています。
地球温暖化が進み、生態系が元に戻らなくなる限界点。
この言葉は、「いま自分たちは、どこに立っているのか」を冷静に問い返す力を持っています。
取り返しのつかない一線を越える前に立ち止まれるのか。あるいは、越えてしまったなら、その現実を直視して前を向けるのか。重い問いです。

“令和ファシズム論”からの警鐘
ここで思い起こしたのが、慶應義塾大学の井手英策教授の著書『令和ファシズム論』でした。
私たちが「大正ロマン」として懐かしむ時代から、軍国主義へと突き進んでいった日本の歩みは、決して遠い過去の物語ではありません。そこには、現代の日本社会にも通じる「ぼんやりとした不安」が、決定的な分岐点を越えて暴走していくプロセスが、克明に描かれています。
まず、土台にあったのは脆弱な「社会連帯」でした。
大正デモクラシー期、日本でも社会連帯という言葉は広まりました。しかし井手教授は、それがヨーロッパ的な水平の連帯ではなく、「救済される側の義務」を前提とした、垂直的な発想だったと指摘します。
「働かざる者は食うべからず」という通俗道徳のもとで、生きる権利は権利ではなく、義務を果たした者へのご褒美にすぎなかった。自律できない弱者を排除する空気が、後の分断とファシズムを準備していきました。
次に訪れたのが、理論への固執が生んだ深い絶望です。
1920年代末、世界恐慌の中で蔵相・井上準之助は、理論的正しさを優先し、金解禁を強行しました。その結果、農村では欠食児童や娘の身売りが相次ぎ、人々は「生活を守れない民主主義」に強い失望を抱くことになります。
井手教授は、この生活不安と民主主義への不信の結合こそが、ファシズム前夜の決定的条件だったと述べています。
その後、高橋是清による積極財政が景気を回復させます。
これは成功体験として語られがちですが、同時に大きな代償も伴いました。景気浮揚の手段として軍事費が膨張し、財政の主導権は「質の統制」から「量の拡大」へと変質していきます。
高橋は出口戦略を模索しますが、一度アクセルを踏み込んだ軍部を止めることはできませんでした。
そして1936年、二・二六事件。
高橋是清が暗殺されたこの瞬間こそ、日本が決定的に「ポイント・オブ・ノー・リターン」を越えた時でした。
財政を抑制する最後のブレーキを失い、日本は戦争へと雪崩れ込んでいきます。
井手教授は、現代日本に漂う「自己責任の強調」や「財政規律の空洞化」に、この歴史の影を見ています。
生活を守れない民主主義は、やがて極端な主張に居場所を譲り、一度加速すれば、止めることは難しい。
歴史が教えているのは、「尊厳ある生活」を保障することこそが、民主主義を守る唯一の防波堤だという事実です。
平田オリザさんの言葉に戻ります。
対話が成り立たなくなり、「おかしい」と感じる感覚そのものが鈍ってしまったとき、私たちは静かに帰還不能点を越えてしまうのかもしれません。
2026年は、まだ踏みとどまれる年であってほしい。
そのために、声を荒げることよりも、対話を諦めないこと。
暮らしと尊厳を守る政治を、当たり前の前提として語り続けること。
元日の朝に、そんな決意を新たにしました。
