大衆とともに歩み、戦う、機関紙の使命を果たす
4月2日に創刊50周年を迎えた公明新聞の「感謝の集い」が、都内のホテルで開かれました。公明新聞とかかわりが深い文化人や、新聞制作で協力をいただいている業務・広告の関係者ら多数の来賓が出席しました。
冒頭のあいさつで山口那津男代表は、これまで公明新聞を支えてくださった関係者や読者に謝意を表明。その上で、公明新聞の役割について、公明党の主張を明快に分かりやすく発信していくことのほか、「公明党独自の主張ではなく、大衆の生活、仕事の現場に根差した、地に足の付いた主張(を展開する新聞)としての役割も重要」と強調しました。
また、「紙に記録として残してこそ伝わる情報もある。この記録性も公明新聞の重要な役割」と指摘。さらに「公明党、公明新聞が大衆とともに歩み、(公明党議員の)ネットワーク機能を発揮し、戦う新聞としての使命を果たす」と訴えました。
このブログでは、山口代表の挨拶の要旨を掲載します。
- 公明新聞は本日、創刊50年を迎えることができました。この50年間、大勢の皆さまにお世話になりました。執筆者の皆さま、新聞制作に寄与していただいた関係各社の皆さま、さらには販売店、配達員の皆さま、何より読者の皆さまに心から感謝申し上げます。
- 公明新聞は1962(昭和37)年4月2日、公明党の前身である公明政治連盟の機関紙として創刊されました。創刊当初は月2回刊2ページ建てでしたが、半年後に週刊6ページ建てになりました。2年後の64(昭和39)年11月17日に政党としての公明党が誕生します。その後、65(昭和40)年6月に日刊の新聞として様相を変え、68(昭和43)年1月には日刊8ページ建てへと発展しました。各面とも非常にバラエティーに富んだ内容の政党機関紙をつくり上げることができ、国政はもちろん、地方議員が活躍する現場を報じるページも、解説のページもあります。限られた面数ですが、さらには文化、芸術などの価値のある情報を詰め込んでいます。
- 発刊当時、日本の政治の状況は、冷戦下にあって右か左か、保守か革新か、という選択肢の限られた国民にとって誠に不幸な状況でした。また、折からの高度経済成長に伴い、急激な都市化が進み、そこにはひずみともいうべき課題が出てきました。そうした中で公明党は、政治の現場から忘れ去られた庶民の声、大衆の声をしっかりと受け止め、政治に反映し、その庶民、大衆にふさわしい政策を実現するための政党として誕生しました。
- 公明党が政党としての機能を遺憾なく発揮するため、公明新聞がまさにその情報媒体としての役割を果たしてきました。例えば、公害撲滅運動にも対応し、政治腐敗をただす役割も担いました。今年40周年を迎える日中国交正常化の推進、非核三原則の実現のためのキャンペーンも実施しました。人的な国際貢献を展開するPKO(国連平和維持活動)への参加に公明新聞がキャンペーンを張り、われわれも奔走した思い出があります。
- 公明新聞は折々のオピニオンリーダーの役割を果たしてきました。何よりも特筆すべきことは、公明党が「福祉の党」と呼ばれるようになったことです。当初は「そんなものは政治のテーマではない」と言われていましたが、今では社会保障、福祉なくして政治は語れません。福祉を政治の中心テーマに押し上げた原動力が公明党であり、公明新聞の戦いであったと思います。
- 人々に伝えるという観点から、公明新聞には二つの重要な意義があります。その一つは、公明党の主張を明快に、正しく、分かりやすく発信する機関紙の意義です。もう一つは、公明党独自の主張ではなく、国民全体の立場に立って広範な国民の共感を呼び起こし、国民世論の形成に貢献する意義です。それは、「大衆とともに」の立党精神のまま、大衆とともに歩む公明党の機関紙だからこそ、大衆の生活や仕事の現場に根ざし、地に足を着けた主張で日本の政治を前に進めていく、という極めて重要な意義です。この機関紙性と大衆性という二つの伝える意義を「車の両輪」として、これからも大切にしていきたいと思います。
- さらに私は、時代を超えて記録と情報を伝える役割も重要だと思っています。東日本大震災で昨年、津波に流され、泥にまみれた写真を一枚一枚ひろい出し、丁寧に洗い、関係者に渡す作業が注目されました。もし紙に焼いた写真がなかったら、今のIT(情報技術)時代にデータだけを機械の中に閉じ込めていたとしたら、その情報は果たして伝え残すことができたでしょうか。紙に記録として残したからこそ伝えられた情報がありました。このように公明新聞が新聞という形で情報を広く時代を超えて伝える記録性も一つの重要な役割だと思います。
- 東日本大震災の被災地では、まさに党の総力を結集し、議員が自ら被災しながら、家族を失いながらも現場に入り、人々の声を受け止め、政策として形に整えて実現に奔走し、ネットワークとしての機能を果たしてきました。それを伝える道具が、まさに公明新聞です。公明新聞の記者を全国から被災地に集め、情報の集約に寄与してきました。公明新聞を通じ、国ばかりでなく都道府県、市町村に伝わり、それが反対にあらゆる政策実現に役立ったということを私たちは強く自負しています。この1年余りの活動は、いずれ記録にまとめて刊行したいと構想しています。
- 時代は今、明治維新と戦後の復興に匹敵する変革の時期だと言われています。今こそ政治が国民が期待するリーダーシップを発揮しなければならない。しかし、民主党政権の現状は程遠いものがあると、われわれも忸怩たる思いがあります。だからこそ公明新聞、公明党が大衆とともに歩み、「現場に根ざす」「地に足を着ける」「ネットワークを生かす」という機能を政治の中で存分に発揮する使命を強く自覚します。
- 今日まで皆さまの知恵と力をお借りしての公明新聞の50年です。分かりやすく伝える役割とともに、戦う新聞としての使命も果たしていかねばなりません。ITの時代に読者や国民と双方向のコミュニケーションをどう図ればよいかという課題にも応えていきたいと思っています。これからも公明党、公明新聞に温かい励まし、厳しい叱咤を賜りながら成長を見守っていただくことをお願いし、50年に万感の思いを込め、重ねて感謝を申し上げます。
蛇足ですが、政党の機関紙について、毎日新聞のコラム「近聞遠見」に評論家の岩見隆夫氏が、「政党の新聞」いまと昔との一文を載せていました。興味深い内容なので、一部を引用させていただきます。
近聞遠見:「政党の新聞」いまと昔=岩見隆夫
毎日新聞(20123/31)
新聞経営はむずかしいといわれるが、政党が発行する新聞(機関紙)にも苦難の歴史がある。
長年、日刊紙を出しているのは公明、共産両党で、それを可能にしたのは組織力だ。製作コストも大変だが、配達する手足がないと成り立たない。
「公明新聞」があさっての4月2日、創刊50周年を迎える。公明政治連盟(公政連・公明党の前身)は1962(昭和37)年9月、東京・豊島公会堂で第1回全国大会を開いたが、席上、創価学会の池田大作会長(当時)が講演し、政治家に望む3点として、「団結第一、大衆直結、勉強だ」と述べたという。「公明新聞」第1号はこの第1回全国大会の5カ月も前に発行されたわけで、3点すべての支えに早くから新聞が準備されたことになる。公明党の結成は第1号のさらに2年半後、64年11月だ。
月2回刊で出発し、週刊を経て結党後すぐ日刊になる。井上義久幹事長は大卒後、同紙記者を7年勤め、赤松正雄衆院、長沢広明参院両議員も記者出身、党と機関紙の人的交流が密だ。
日刊紙の先輩は共産党の「しんぶん赤旗」で、28年2月1日の創刊、公明と逆で、結党の5年半後だった。84年の歴史を刻んでいる。創刊時は月2回刊で「赤旗」、セッキと呼んだ。戦前は弾圧のもと、何度か休刊を挟み、「アカハタ」を経て今の題字になる。
購読料が党資金の中心を占めた時期もあったが、最近は運営も楽でないらしい。しかし、公明、共産両党とも日刊機関紙ぬきの党活動はもはや考えられない。民主党も月2回刊の「プレス民主」(タブロイド判)、自民党は週刊の「自由民主」(同)を発行しているが、大版日刊紙の迫力には到底かなわない。
社民党は旧社会党から引き続き、「社会新報」を発行している。社会党時代は大版の週2回刊だったが、96年の党名改称の折、週刊に、さらに02年タブロイド判に縮小したという。<以下省略>