日本に期待される「国造り」への貢献
11月5日、エルベ・ラドスース国連事務次長(PKO局長)は、都内で開催されたシンポジウムで、現在のPKOの役割を、「国連平和維持活動(PKO)は、紛争で苦しんだ人たちに『未来は明るい』との希望を与えることだ」と表現しました。
まさに、PKO活動は平和維持だけでなく、紛争後の国造りを支援し、明るい未来を開く平和構築に大きな貢献をしていることを求めなくてはなりません。
国造り支援などにPKOの任務が広がった背景には、冷戦終結(1989年)以降に多発した内戦への対応がありました。内戦の場合、停戦協定が成立しても、その後の平和プロセスを進めるべき政府が機能不全に陥っているばかりか、国土の荒廃で国民の生活基盤も破壊されています。
その中で平和を取り戻すには、PKOがただ停戦監視だけで平和協定の成立を待つ「伝統的PKO」の範囲にとどまっていては何も進みませんでした。停戦監視と同時に、国造りの支援も不可欠だったのです。
日本がPKOに初めて参加したのは20年前。PKO法に基づく自衛隊の海外派遣は1992年9月でした。陸上自衛隊のカンボジアを皮切りに計14件派遣され、停戦・軍事監視や人道支援、選挙監視、復興開発の実施などを通して、国際社会から大きな評価を得ており、日本の国際貢献の柱として定着しています。
20年前、当時のわが国では、社会党や共産党だけでなく、一部マスコミが連日、PKOへの自衛隊派遣を批判し続けました。「海外派兵だ」「海外での武力行使につながる」などと、国民の不安をあおったのです。
こうした議論は、冷戦終結・湾岸戦争という歴史の大転換を見逃した議論であり、「一国平和主義」にとらわれていた世論と連動し、PKO反対の大きなうねりとなっていました。
しかし、公明党は、既成の平和をただ享受するだけの存在ではなく、世界平和のために役割を果たす国際貢献に乗り出すべきだとして、国民に納得していただけるPKO法案づくりに全力をあげました。具体的には、(1)停戦合意が成立している(2)紛争当事国がPKO受け入れを要請・同意している(3)PKOが中立であること(4)以上の三つのうち、いずれが欠けても任務を中断、もしくは撤退する(5)武器の使用は護身に限定する—という「PKO参加5原則」を提案。これを骨格とし、武装解除の実施や武器の保管などを行うPKOの本体業務といわれる平和維持隊(PKF)の一時凍結を唱えて、法案成立の推進力を果たしたのです。
自衛隊が初めて参加したPKOであるカンボジアPKOは、停戦監視と国造り支援の両方を任務とした「複合型PKO」の先駆けでした。自衛隊はそこに600人規模の施設部隊を派遣し、道路建設など社会基盤整備を行いました。その後も自衛隊は、「複合型PKO」の東ティモールPKO、ハイチPKO、南スーダンPKOに施設部隊を派遣し、高い評価を得ています。
20年前、一党員に過ぎなかった私も、党内や支持者の皆様との間で、真剣な議論が続けられた記憶を新たにしています。このPKO参加の是非を巡る議論の中、公明党がより広い視野にたった国民政党に脱皮したといっても過言ではありません。国際社会の中での戦後日本の新しい生き方を開いた、PKO法の制定に公明党が貢献したことは誇るべき実績でだと思います。
前述のラドスースPKO局長は、公明党の山口那津男代表との会談で、施設部隊や医療専門部隊、文民警察など専門性の高い要員が今後さらに必要になると述べ、日本の要員派遣に期待を寄せました。
PKO活動で日本が出来ることとできないこと
一方、国連は一般市民を虐殺から守るためにPKOに武器使用を認める文民保護の問題に直面しています。日本はPKO協力法で、武器使用を基本的に要員の自衛に限定しているため、文民保護には協力できません。これが、公明党が強く提唱した「憲法が禁止する海外での武力行使にならないための歯止め」なのです。これについても、ラドスースPKO局長はシンポジウムで「憲法上の制約は尊重されるべきだ」と明言しました。
これからも日本の国際貢献の大きな柱であるPKO活動。出来る事とできないこと、やるべきこととやっていはいけないこと、これを明確に立て分けながら、PKO活動のさらなる充実を図っていくべきです。