11月の冷たい風が吹きつける夕刻、大分市佐賀関の空を黒煙が覆い始めたとき、町の人々はただ呆然とその光景を見つめていたといいます。182棟もの住宅が焼け落ち、1人が命を落とした今回の大火は、港町として長く続いてきた佐賀関の暮らしに深い傷を残しました。小さな漁師町だった頃から人々の暮らしを守ってきたこの地域にとって、風景が燃え尽きていくさまは、住民の心に消えない痛みを刻んだはずです。
そんな中で、かつてこの町とともに歩んできた企業が、大きな決断を示しました。佐賀関に製錬所を構えるJX金属グループが、被災者支援のために総額10億円を寄付するという知らせが届いたのです。火災発生からわずか数日。生活必需品の提供、社宅や寮の提供準備、食事の支援に至るまで、同社はすでに被災者の生活を支えるための行動を静かに進めていました。寄付の理由として語られたのはたった一言、「100年以上支えていただいた恩に報いるため」。その言葉には、この企業が歩んだ歴史と地域への深い思いが凝縮されていました。
佐賀関とJX金属の関係は、遡ること1916年。久原房之助が率いた久原鉱業(後の日本鉱業)が佐賀関に製錬所を構えたのが始まりでした。良港に恵まれた佐賀関の地は、海路の便がよく、排煙を海に逃がすことで煙害を最小限に抑えられると考えられ、製錬所建設の地として選ばれました。実際には、明治期の煙害問題への住民の反発、用地買収への激しい反対運動など、簡単に受け入れられたわけではありません。反対派と賛成派が地域を二分し、暴動や逮捕者も出るほどの社会的な軋轢が生じた歴史があります。それでも時を重ねるなかで、「産業としての発展」と「地域の暮らし」が少しずつ歩み寄り、やがて共存共栄の精神が根付き始めました。
製錬所の巨大な大煙突が町の風景にそびえ立つようになると、佐賀関は企業城下町としての表情を帯びていきます。高度経済成長期には人口が膨らみ、映画館が5つ並ぶほどの賑わいを見せました。病院や購買会、共同風呂、団地、スポーツ施設が次々と整備され、子どもたちには奨学金が与えられ、地域には「精錬所と生きる」という文化が育っていきます。社会人野球の日鉱佐賀関野球部が全国で活躍したことも、この町にとって誇らしい記憶です。佐賀関の発展と喜び、そして人々の暮らしの変化の背景には、常にこの製錬所の存在がありました。
その姿は、私の住む茨城県日立市とどこか重なります。日立市もまた、久原房之助が開いた日立鉱山を礎に発展した町であり、鉱山と製錬所が地域の文化と経済を形づくってきました。大煙突が町の象徴であったこと、鉱業の栄枯盛衰が地域の運命を左右してきたこと、そのどれもが佐賀関と日立をつなぐ“歴史の血縁”のように感じられます。だからこそ、佐賀関の大火のニュースに胸が痛み、JX金属の支援にどこか懐かしさにも似た感情が湧いてくるのかもしれません。
今回の大火は、佐賀関の将来に大きな不安をもたらしました。人口減少が続き、地域の活力が課題となる中で、町の中心部が焼け落ちるという衝撃は小さくありません。けれども、JX金属が寄付に込めた「恩に報いる」という言葉は、単なる経済的支援ではなく、この町と企業が積み重ねてきた100年の歴史そのものへの応答です。企業が地域を支え、地域が企業を支えてきたその関係性が、危機のときにこそ力を発揮する──今回の行動はその証でもあります。
この10億円の寄付が火災からの復興に役立つのはもちろんですが、それ以上に、地域と企業が改めて「ともに生きる意味」を見つめ直すきっかけになることを願っています。これからの佐賀関がどのような道を歩むのか。人口減少、産業の転換、防災力の強化、新しい交流人口の創出──課題は山積みです。それでも、かつて製錬所の誕生が町に希望をもたらしたように、今回の支援が“新たな町の再生”へ向かう力になると信じています。
大火によって奪われたものはあまりに大きく、住民の痛みは計り知れません。しかし、その痛みと向き合いながらも、地域と企業が百年前から紡いできた絆が、これからの未来を照らす灯台のように静かに輝き始めているように思えてなりません。佐賀関の復興と、再び活気ある港町として歩み出す日を願いながら、私たち自身もまた、自分の地域の歴史を見つめ直し、未来のために何ができるかを考える時が来ているのかもしれません。
佐賀関の一日も早い復興を、心から祈っています。
