12月10日、久しぶりに妻とともに日帰りで栃木市まで足を延ばし、栃木市立美術館で開催されていた特別展「喜多川歌麿と栃木の狂歌」を訪れました。展示は最終日ということもあり、館内には静かな熱気が漂い、冬晴れの清々しさと相まって、心がすっと整うようなひとときでした。
今回の展覧会では、江戸後期を代表する浮世絵師・喜多川歌麿が手掛けた美人画と、当時の文芸ブーム「狂歌」との深いつながりが紹介されていました。歌麿といえば美人画の名手として広く知られていますが、実は狂歌師たちと親しく交流し、狂歌入りの版本や挿絵を数多く制作していたことはあまり知られていません。江戸で流行した狂歌文化は各地へと広がり、栃木でも大きな盛り上がりを見せました。その中心にいたのが、豪商として知られる善野家の当主・通用亭徳成(善野喜兵衛)です。展示資料でも、徳成が狂歌や浮世絵文化の重要な担い手であったことが強調されており、歌麿と栃木との縁を結んだ存在として描かれていました。

そして、今回特に心を奪われたのが、歌麿が晩年に描いた肉筆の大作「雪月花」三部作――「品川の月」「吉原の花」「深川の雪」に関する展示です。なかでも「深川の雪」は縦198.8cm、横341.1cmという驚くべき大画面で、深川の料亭で雪景色を眺める芸者たち27人の姿が精緻に描かれています。展示されていたのは極精密の複製品でしたが、画面全体に漂う静けさや張りつめた空気感は圧倒的で、絵巻物のように続く物語性に引き込まれ、しばらくその前を離れることができませんでした。
資料によれば、この「深川の雪」を含む三部作は、栃木の善野家が歌麿に依頼した作品であり、使用された紙は当時長崎から輸入された最大級の中国産高級紙(宣紙・文宣紙)です。歌麿の最晩年に到達した高度な技術が惜しみなく注がれた、“最高傑作”と位置づけられる所以がよく理解できました。
こうした大作が生まれた背景には、当時の栃木の繁栄が深く関わっています。江戸時代の栃木は、京都から日光東照宮へ向かう奉幣使が通る例幣使街道の宿場町として賑わい、さらに巴波川(うずまがわ)を利用した舟運によって江戸と活発に交流していました。そのため栃木は単なる通過点ではなく、商業と文化の集積地として発展し、多くの豪商が財を成しました。現在も残る白壁の蔵や土蔵の街並みは、当時の栄華の象徴といえるでしょう。
善野家はこの繁栄を象徴する豪商で、質屋・醤油問屋・金融など多角的な商いを展開し、江戸文化を受け入れ、育てる文化的な器を備えていました。通用亭徳成のような教養ある商人たちは、狂歌や浮世絵を通じて江戸と地方の文化交流を促し、結果として歌麿のような芸術家を支える重要な存在になっていました。さらに、三部作の随所に善野家の家紋「九枚笹」が描かれているとの指摘もあり、文化的パトロンとしての影響力の大きさをうかがわせます。
また、三部作が栃木で描かれた可能性についても展示資料で触れられていました。巨大な肉筆画を江戸から地方へ運ぶのは難しく、むしろ歌麿が栃木の豪商に招かれて滞在し、そこで制作したほうが自然であるという説もあります。当時の栃木は江戸文化の受容地であると同時に、新たな文化を生み出す力を持つ土地であり、その豊かな文化的土壌の中で「雪月花」が完成したと考えると、作品の背景に一層の厚みが感じられます。
現代の栃木市には、善野家をはじめとする豪商たちが残した蔵や街並みが今も息づき、とちぎ歌麿交流館などの文化拠点を通じて、江戸時代の文化が静かに受け継がれています。栃木がかつて「江戸文化と地方文化の交差点」であったことは、こうした景観や資料を通じて実感することができます。
歌麿の「雪月花」三部作は、単なる美術作品を超え、当時の栃木が持っていた経済力、文化的感性、そして江戸との豊かな交流関係を映し出した鏡のような存在です。今後、栃木を訪れる際には、街並みの背後に息づくこうした歴史と文化の重なりを思い起こしながら歩くと、また違った風景が見えてくるかもしれません。

【付記】「深川の雪」の数奇な所有者の変遷について
喜多川歌麿の代表作「深川の雪」は、その美術史的価値の大きさとは裏腹に、長い間“行方不明の名作”として語られてきました。作品が確かな記録の上に姿を現すのは 1952年、銀座松坂屋で開かれた「歌麿生誕二百年祭 浮世絵大展覧会」 に出品された際のことです。これが、後に長く消息を絶つ前の“最後の公開展示”となりました。
この展覧会以降、作品は市場から姿を消し、所有者も不明となり、半ば伝説的な存在として語られるようになります。
転機が訪れたのは 2012年。長年の不明期間を経て作品が再発見され、修復を経てその姿を取り戻しました。再発見後は、神奈川県箱根の 岡田美術館 に収蔵され、同館を代表する目玉作品として公開されるようになりました。
しかし、2025年、岡田美術館の財政難が報じられる中、「深川の雪」は美術館を離れ、11月に香港で行われたサザビーズのオークション に出品されることとなりました。海外流出が強く懸念されたものの、最終的には 約11億円で日本の個人コレクターが落札。日本国内にとどまる結果となり、大きな安堵を呼びました。
依頼主とされる栃木の豪商・善野家の伝承からはじまり、一度は人々の前から姿を消し、再発見と競売という波乱を経て現代に受け継がれた「深川の雪」。
その数奇な歩みは、作品そのものの魅力とともに、今もなお多くの人の関心を惹きつけてやみません。
