
この言葉を初めて耳にしたとき、私は強い違和感を覚えました。発言の文脈としては、「日本のことを悪く言う人」や「国の方針に反対する人」を指して使われていたようですが、その背景には非常に深刻な問題が潜んでいると感じています。
この言葉が、「日本人ファースト」を掲げる政治家によって語られているという事実もまた、考えさせられる点です。「外国人を批判するのではない。私たちは“反日の日本人”と戦っているのだ」と叫ぶその姿には、「日本人の中にも敵がいる」といった排他的な視線が感じられます。
「日本人ファースト」というスローガンの曖昧さ
「日本人ファースト」という言葉は、一見すると国民の利益を守るための主張のように聞こえます。しかし、その「日本人」とは誰を指すのでしょうか。異なる意見を持つ人、政権に批判的な人、リベラルな価値観を持つ人、あるいは外国にルーツを持ちながらも日本で生まれ育った人々──そうした人たちは「日本人」の範疇から外れてしまうのでしょうか。
そう考えたとき、この言葉が生み出す「内と外」「善と悪」という二項対立の構図に、危うさを感じずにはいられません。
民主主義の社会に必要なのは「対話」と「多様性」
「反日の日本人」という言葉が危険なのは、それが自分と異なる意見を持つ人々を「敵」と見なすレッテル貼りになってしまうからです。民主主義とは、多様な意見が自由に交わされ、対話を通じてより良い社会を目指すプロセスのことです。そこでは、たとえ厳しい意見や耳の痛い批判であっても、耳を傾けることが求められます。
「日本を愛する」とは、国の現状に無批判で従うことではありません。むしろ、よりよい社会をつくるために声を上げ、必要なときに異議を唱えることこそ、真の愛国心なのではないでしょうか。
「敵」としてではなく、「同じ社会に生きる市民」として
私たちは、それぞれに異なる考えや価値観を持っています。それは当たり前のことです。だからこそ、「自分と違う」という理由だけで誰かを「反日」と決めつけることは、とても乱暴な行為です。
「反日の日本人」といった言葉の背景にある、分断と排除の空気に流されず、「対話」と「共生」の社会を目指していくべきではないでしょうか。