東日本大震災の支援で、大きな課題としてクローズアップされているのが、在宅被災者の問題です。被災後、自宅で生活を続けた在宅被災者が、物資の配給などの支援から置き去りにされるケースが続出しました。避難所にいる被災者に目が行きがちだった行政の取り組みの“盲点”であり、全国の自治体が今後の防災対策を見直す際の重要な論点となることは必至です。以下、公明新聞(2011/7/4日付け)のレポートから宮城県の被災地の状況をまとめました。
◆SOSメール
大津波と直後の火災により、公共施設を含む1万棟超の建物が被害を受け、行政機能も大きく奪われた気仙沼市。がれきの山と化した沿岸部から高台へと車を走らせると、まだ住める家屋が現れ始め、生活の息づかいが感じられるようになります。
その一角で一人の女性(57)に話をお聞きすると、「家は大丈夫だったけど、電気や水道が止まり、食料も3日でなくなった。家を流された親戚が、わが家に避難していたから、避難所に食べ物をもらいに行ったんだけど……」と苦々しい顔で語り、さらに言葉を続けました。「避難所には物資が山と積まれていた。でも、『これは避難所の人の分』と門前払いされた」と。
このように在宅被災者の多くは、物資が極端に不足し、困窮しました。道路が遮断され、車の燃料も不足したため、自力で調達することも困難でした。
気仙沼市内で個人商店を営む女性(53)は「震災直後に全ての食料品が売れて、何もなくなった。近所の人も本当に困っていたから、携帯電話で何とか、知人にSOSメールを送った。すると、物資が徐々に届き始めた」と振り返り、携帯電話の画面を見せてくれました。『自宅で頑張っている人たちには食料品の支援もなく、お店もない。力を貸してください!』と、被災12日後の3月23日に送信したメールでした。
◆高齢者を抱え
自宅が被害を受けていても、やむを得ぬ事情で避難所を出て自宅に帰るしかなかった人々もいます。
南三陸町の女性(61)は、自宅が大津波で「大規模半壊」となり、夫や義母、息子夫婦、1歳の孫とともに避難所に身を寄せました。しかし、義母は認知症の症状があり、孫も夜泣きをする中で、周囲との人間関係がギクシャクしたため、被災1カ月で、危険の残る自宅に戻らざるをえませんでした。
女性は「ライフラインが途絶え、余震も怖いから避難所に居たかったが無理だった。最も困ったのは、地域の行政区長が避難していて不在だったこともあり、行政の支援物資が届かず、避難所に行っても配給がもらえなかったこと。同じ被災者なのに家に居るだけで、なぜ差別されるのか」と悔しそうに訴えました。
◆改善の動きも
石巻市でも被災後しばらく、在宅被災者に物資が届きにくい期間が続きましたが、市議会公明党の働き掛けもあって、被災2週間後ごろから一部の地区で代表者宅などに物資が届き始めました。
石巻市志の畑地区(約20世帯)では3月27日から阿部勝子さん(66)の自宅に届けられました。阿部さんは「うちの地区は被害はなく多くの避難者を受け入れたが、すぐに食料が底を尽き困った。そこで、公明党の市議を通じて市に救援を要請した。それがなければ、私たちは忘れられていたかもしれない」と語っています。
石巻市ではライフラインが復旧せず、周辺の店が休業する地域があり、こうした取り組みは今も続いている。石巻市渡波地区の内海やい子さん(63)宅には毎日、食料や生活用品が届き、近隣の14世帯の住民が受け取りに来ています。内海さんにとっては、物資の分配など負担が大きいが、「忙しいけど、みんなが喜んでくれるなら」と微笑みながら語っています。
◆自治体任せは無責任
今回の大震災では、在宅被災者が行政による支援から置き去りにされていたと言えます。
実際、国が“避難所での食料配布の対象に在宅被災者が含まれる”という見解を自治体に対して明確に打ち出したのは、被災2週間も過ぎた3月25日付の通知文書「災害救助法の弾力的運用について」でした。少なくともそれまでは、食料の配布対象をめぐって多くの避難所で混乱したことは想像に難くありません。
「在宅被災者は明確な定義がなく、その数の把握すらできない」と自治体の担当者は指摘しています。在宅被災者対策は難しい課題です。今後、各地の自治体で今後行われる防災計画見直しの重要な論点となることが予想されます。国が自治体任せの無責任な対応に終始するのか、それとも、何らかの積極的な対策を打ち出すのか―。その姿勢が厳しく問われています。