3月1日、茨城県立高校の卒業式が一斉に行われました。井手よしひろ県議は、60回目を迎えた県立多賀高校の出席し、来賓を代表して祝辞を述べました。このブログでは、挨拶の原稿を掲載します。
県立多賀高校卒業式での祝辞

卒業生の皆さま、保護者の皆さま、ご卒業誠におめでとうございます。この晴れの門出に当たり、一言お祝いの言葉を申し上げます。
突然ですが、皆さんは納豆がお好きですか?
茨城県の名産と言えば、やはり納豆をおいて他にはありません。今、テレビやマスコミで話題になっているのは、納豆の妖精「納豆ねば~る君」と糸を引かない納豆「豆乃香」です。
糸を引かない、ネバネバが少ない納豆は、茨城の納豆業者と茨城工業技術センターが、「外国人でも食べやすい納豆をつくれないか」と、納豆菌の培養を繰り返して開発したものです。永年の試行錯誤を経て、昨年4月に特許を申請しました。
この菌を使った新たな納豆のブランドを「豆の香り」と書いて「豆乃香」と統一しました。今年1月末、フランス・リヨンの国際外食産業見本市に出品したところ、美食の国・フランスの食品関係者の間で大きな話題となりました。日本でも、朝日新聞のコラム「天声人語」で紹介されるなど、注目を浴びています。
日本のソウルフードとも言われる、伝統食・納豆。その歴史の裏には、社会環境の変化に見事に対応してきた事実があります。
そもそも、茨城が納豆の名産地として評価を受けたのは、「天狗納豆」の功績です。
それまで、大豆といえば、大粒の大豆が主流でした。しかし、茨城の大豆の生産地であった那珂川流域や鹿島地域では、台風の影響もあり、小粒の大豆しか出来ませんでした。
これを逆手に取ったのが、「天狗納豆」でした。小粒の大豆で納豆をつくってみたら、その口当たりが独特な風味を醸し出したのです。その新鮮な味わいが「水戸の納豆は小粒で旨い」と評判になったのです。
さらに、「天狗納豆」は、販売の方法も大きく変えました。当時の納豆販売は、売り子さんと呼ばれる行商人が売り歩くスタイル。たくさんの納豆を担ぎ、得意先を一軒一軒訪問する重労働でした。「天狗納豆」が創業した、明治22年。水戸と栃木県小山市をつなぐ水戸線が開通しました。「天狗納豆」は、駅前広場や列車のホームで、土産物として納豆の販売したのです。土産物の納豆はそれぞれの地域で食卓にのぼり、納豆といえば茨城・水戸というイメージを定着させていきました。これが、いわば第一次納豆革命です。
次に起こったのは大量生産、大量販売による革命です。「おかめ納豆」のブランドで有名なタカノフーズは、いち早く納豆の量産体制を整備し、他社に先駆けてカップ納豆やミニトレー納豆などの商品を全国に供給しました。手仕事の納豆づくりを工場で生産するという体制が確立しました。また、「関西では納豆は売れない」という当時の常識にも挑戦しました。いち早く、営業拠点や工場を西日本に整備していきました。
今や、小美玉市に本社を置くおかめ納豆は、一日400万食を生産し、日本一の納豆メーカーになりました。この大量生産、大量販売が第二次納豆革命です。
そして、第三次納豆革命、今までの常識を打ち破った「糸の引かない、ネバネバが少ない納豆=豆乃香」の登場です。
JCO事故の風評被害などの影響で、大量生産、大量販売の競争に脱落した、納豆の老舗「くめ納豆」が、6年前に破綻しました。この破綻した会社の従業員が、規模は当時の4分1程度に縮小したものの、5年間で企業再生を果たし、今回「豆乃香」開発の中心的な役割を果たしました。日本を飛び出して、フランスでの品評会に挑戦したのです。日本の代表的な食文化が、世界に向かって挑戦を開始しました。
納豆の歴史をひもといただけでも、そこには大変な環境の中で、逆境の中で、活路を見いだそうとした人々の姿が見えてきます。納豆いう伝統的な食品も、それを常識にとらわれず、日本中に、世界中に広めていこうと戦った人たちが見えてきます。
20世紀最高の歴史学者と言われるイギリスのアーノルド・トインビー博士は、「挑戦と応戦」という法則を、私たちに教えてくれています。
「文明というものは、つぎつぎに間断なく襲いきたる挑戦に、応戦することによって誕生し、成長するものである」と、強調しています。
60回目の卒業式という節目の時、多賀高校を卒業し、社会に旅立つ皆さん。多賀高校卒業という誇りと、常識のとらわれず、未来を開いていこうという気概をもって、厳しい変化、変化の社会の中で、勝ち抜いて行っていただきたいと思います。
皆さんの新たな生活に栄光あれとお祈りし、お祝いの言葉といたします。
本日は本当におめでとうございました。