耳慣れない言葉ですが、「限界集落」(げんかいしゅうらく)という言葉を最近知りました。限界集落とは、65歳以上の高齢者が、人口比率で住民の50%を超えた集落のことを指します。長野大学教授(高知大学名誉教授)である大野晃先生が、1991年に最初に提唱した概念と言われています。
中山間地や離島を中心に、過疎化・高齢化の進行で急速に増えてきており、このような状態となった集落では、生活道路の管理、冠婚葬祭など、共同体としての機能が急速に衰えてしまい、やがて消滅に向かうとされています。共同体として生きていくための「限界」という意味で限界集落と表現されています。
旧国土庁が1999年に行った調査では、2009年までに全国で419の集落が消滅し、やがて1690の集落が消滅すると予測されていました。
大野教授は、高齢者の人口が過半数に達し財政維持が困難になった自治体を「限界自治体」と名付けました。2000年の段階では、限界自治体に当てはまる市町村は、全国でただ一つでした。しかし、国立社会保障・人口問題研究所の2003年の資料を基に、大野教授が試算したデータによると、2015年には全国で51、2030年には143市町村にも上ると予測されています。
限界集落は、その多くが林業に依存する山村です。安い輸入材に圧迫されての長い林業不振が、山村の人口減と高齢化に拍車をかけ、限界集落化を進行させているといわれています。限界集落の問題は、環境問題とも密接にリンクしています。田畑や人工林の放置は、山自体の荒廃を招きます。たとえば、人工林を放置すれば山の保水機能が損なわれ、渇水や鉄砲水などが起こりやすくなります。山の栄養分が失われると、結果的には海の漁獲高にも影響するといわれています。
大野晃教授は、岩手日報のインタビュー(2006/4/3付け)に、「集落をどうやって維持するべきと考えるか」との質問に答え、次のように語っています。
「限界集落は山村の過疎の問題だけではない。より深刻で、山の問題はダイレクトに災害など都市につながっていく。だから『流域共同管理』を提唱している。上流、中流、下流で流域社会圏を設定。山から恩恵を受けている都市など下流の人たちが、上流の山村を支援しながら、流域で人間と自然が豊かになる仕組みをつくるべきだ。市町村合併も理念なき数合わせでなく、流域社会圏で合併するという考えがあってもいい。また、山村の担い手は農業も林業もこなす『農家林家』だ。林業の直接支払制度の創設も必要ではないか」と。
限界集落の問題は、茨城県においても、県北山間部のまちづくりに考えなくてはならない大きな課題です。
参考:とことん住民力(岩手日報のインタビュー記事より)
限界集落の視点の根幹は 都市文化にある。
欧米文化を取得した日本人は 欧米型即ち外に向けた
搾取型の開放文化を取り入れたのだ。日本の藩政時は
ともかく藩内改革において自主独立の経済であり人の生活を営みを守ることに専念した。そこで独自の日本文化が出来上がったのである。戦前も戦後も今も
問題の国際化の中の有り様が この形態を決めている。
すなわち 子供を産んで育ててもその土地に住まない。産業が発展しても 都市機能によって安売りされてしまう。安全だ緑だ水だといっても 需要と供給の
間である仕入れ屋もしくは市場によって他県他国からの取引の餌にしかならない。よく海外の農地の話が出るが 日本のこの山間部と全く違う。もし山が放置され続ければ ダムは決壊し多くの木々が土石流となり
多大な負担はそのまま国民生活にかかるだろう。
また 小なりと言えど 食料・木材料・酸素・水・魚
と色々な産出物は 国民にとっては大きな財産である
とりもなおさず 自然がもつ力をもっと知るべきである。
人口割りの選挙定員ではなく、面積割の選挙定員にすべきです。
国というのは、人だけで成立しているのではなく、土地があっての事です。
都市部の事だけ考える国会議員。
国土の事、環境の事、生活の事全般を考えないといけません。
限界集落を考える事は、まず選挙制度を考える必要があるよに感じます。
限界集落はどんどん自然に戻すべきだ。
人類が増えすぎて自然を食い荒らしたから。
人類は住みよいところにだけ少人数住んでいればいい。
自然を大切にし自然環境を良くし良い自然に囲まれて生活していれば良い。
自然を開発しないで保護すべきだ。
今のうちに、ある程度自然を復活させる努力をしないと、自分達の生活も危ないよと言う話なんですがね。
人間の歴史なんて短いものです、愛着があるのは結構ですが、愛着を理由に低いパフォーマンスで自然を破壊されても困るのです。
日本は以上に人が多いんです。国土に比べて、だから、できるだけ集約して、都市内でのエコサイクルを確立し、自然に被害を及ぼさないようにしないといけないと考えます。
雑木林にしろと言ったのは、森林の生産性が遥かに高いからです。昨今の動物による食害などは、人の異常な進出と、森林の生産性の低下と考えます。
今私が住んでいる集落は、将に限界集落の言葉にピッタリです。
300世帯程の村のうちの一集落で50世帯程の集落です、今人口は200人足らずですが平均年齢が45歳ほどです、後数年経たずして、いわゆる‘限界集落‘です、山林の占める面積の割合は95%ほどですが人工植林地は荒れ果てて手入れをする人がありません。
中学校は来春から統合されてなくなります、
山は荒れ果てて老人ばかり多く手入れができません、
農地も工作放棄地が年毎に多くなり後10立たずして
部落は崩壊します。
政治家の方々に頑張ってもらいたいもにです。
先人たちや私たちが努力して達成している幸せは、
貿易や協調に基づき成り立っています。そのような
日本の立場的性格は小学校高学年で等しく学んでき
たことです。そしてこの構図はドメスティックな問
題でも発生します。現代の日本だけでなく歴史的な
背景や産業の興廃も含んで日本を学べば、簡単に片
付けられる問題でないことがわかると思います。
限界集落の問題を契機に人の生活圏がどのように維
持されているのかを議論・再考するのは良いことだ
と思います。
自然と廃れていくものは仕方ないかもしれませんが
恩恵を受けているかもしれない人間が、それを「自
己責任」として片付けるのは少し短絡的なのではな
いでしょうか。
「おらが在所」に住むことの高コストは、既に日本
全体に言えることです。米や牛肉の輸入自由化や産
業の空洞化、そして少子高齢化と続く時代の変化で
日本が将来に渡って安定的に暮らせるかどうかは
大変不安視されるようになりました。少し米が不足
すれば騒動となり、石油価格が上がっても混乱が生
じる、出生率の低下と労働人口の減少に伴う年金供
給の神話崩壊や医療費負担の引き上げ。仮にこの問
題がさらに深刻化して、諸外国のように労働力とし
て移民を受け入れなければならなくなる、あるいは
大部分の米を輸入するか助成金を増して自給率を高
めるなどの対策を講じるなどが生じた場合、私たち
にそのような環境の変化を受け入れる度量を持って
いるでしょうか?
すべての人間が必ずしも望んで「その場所」で暮ら
しているとは限りません。住んでいる理由や存在す
る理由を自己責任だけで片付けることは難しいこと
だと思います。
私は井出さんを推すというわけではありませんが、
井出さんのご説明の中に
”田畑や人工林の放置は、山自体の荒廃を招きます。
たとえば、人工林を放置すれば(割愛)結果的に
は海の漁獲高にも影響するといわれています。”
と明記されている通り、医療の話ではなく「そこに
住む人が居る」ということの意義を考えずに山林の
荒廃を看過することの危険性が示されています。
歴史を学べば灌漑治水の重要性や林業の大切さ、
さらに、そのような生業に対する興味が湧けばその
ような暮らしを営んでいる方々の多くが、なぜ不便
やリスクを払ってまでこの風土を守ろうとしている
のか、察せられそうなものと思います。話はそれま
すが、日本語が話せる外国人を日本人とは言いませ
ん。日本の文化・歴史をもって初めて日本人と言う
のでしょう。「hasimoto」さんのコメントは日本語
が間違っていても日本人らしいコメントです。
限界集落の一覧って公開されていないんですか?
(字数制限があって付け足しです)
また、限界集落については山村ならではの文化固有性が強い地域がほとんどです。人・自然だけでなくそういった固有文化をいかに後生に財産として残していくのかも議論していただきたいと思います。
ついでに、国産材ですが、国内流通単価でも国際的に見ても、今や一番安い材です(米マツの2/3程度)。国産材の有効利用は現在荒廃している人工林を活性化させ、元気な森にします。
荒れ果てた人工林ばかり見ている方には信じられないかもしれませんが、よく手入れされた人工林はふつうに中低木・草本までの相が発達し、多くの野生生物が住める場所となります。また、水源涵養の機能も強くなります。二酸化炭素の吸収量の問題では若年の100-200年サイクルで更新を続ける人工林は天然林に比べてはるかに高いというメリットもあります。 以上環境面から、限界集落周辺の環境、特に林業についてとりとめなく書きつづりました。
林業はすでに衰退し、公務員として雇って管理するにしても、誰も指導者がいないくらいになっています。もう少し違う視点、つまり環境からの側面で事業と雇用を創出・あるいは管理する必要を感じます。
近代日本人の典型である、他力本願。
いろいろな場所に人の手..と言っている方もいますが、限界集落に関しては住みにくいという土地柄なのです。わざわざ他人を住みやすくするためにどうして住みにくい土地に住めるでしょうか?住みやすい土地に住む人の、感謝の言葉に置き換えた聞こえがいい発言に取れます。
だから?災害を防ぐために、都心部から自己を犠牲にして誰が移り住みますか?
災害が起きて、不幸な出来事がおこってから気づけばいいのでは?その前に動くのが政府であるのですが、そこでも政府の無策とかいう人がいました。
政府を選んでるのは我々あり、ワイドショーに流され一喜一憂しそして事を忘れる、有権者が悲しくも一瞬一瞬にキレイな言葉で正論を言います。
重要な事は、まずごちゃごちゃ言わないで、行動あるのみです。
ごちゃごちゃ奇麗事を言う人間ほど、動かないのが現実。憂いているなら、出来ることをしよう。
私自身は都会出身ですが、限界集落に住んで、関わっているものとしてはかなり乱暴な意見が多いことに驚きます。
雑木林を増やすという提案ですが、ある程度は増やして良いかと思います。しかし、現在の日本の木材需要はほとんど外国産材に供給されています。
ワールドワイドな視点で見れば世界中の原生林という原生林を丸裸にしてまで、安い(安かった)材を輸入し続けている日本は如何なものかという見解もあります。そもそも原生状態の森よりも効率的に樹木を育てるという発想が人工林ですから、要はバランスの問題です。
戦後の拡大造林以前の林業施行法は土倉庄三郎の提唱したようなやり方が一般的で、天然林と人工林を上手に配して行っていましたよね。戦前の共存できていた時代の姿に戻すのが良いと思います。
森は海の恋人
http://www.bunshun.co.jp/book_db/html/7/71/70/4167717042.shtml
林業は漁業なんかにも影響を与えるらしいです、山林の手入れを公共事業にしたらいいんじゃないの?
って話ですよね。
日本列島改造論とかやったせいで
なんの魅力もない、どこへいっても同じ国にされた。
生命に溢れた国が、
官僚に金をバラ蒔いたあの人のお陰でパーだ。
まさか影で現在の日本を作りあげた資本国家が動いた?
自治体の支援を望む意見の人は
自分がまずそこに住んだら?
自己責任だよ。生活は。
上の方はどうして人のことをまず書き込んだのか?ですが
井出さんの文章を読んできたにもかかわらず
医療の話しをなぜ?されているのか不明です。
いろいろな場所に人の手が入ることで住み良い日本を
作って下さっているってことがわからないんですね。
田舎や上で言われている集落などに
住んでいる人がいるからこそ、その場所に道があり
少なからずそういう村(場所)でも活気があるのです。
そういう人達がいなくなったらって考えて下さい。
大袈裟かもしれませんが村は荒れ果て草木におおわれ
その場所にはもう近付くこともできなくなるんですよ。
そういう場所が増えてきたらって思うと恐くないですか?
それと昔から住んでいる人がいるんですよ。年老いた方も!
そんな方がおいおいと都会で住むなんてできないのです。
それを助ける為にどうしようって話しなのです。
>政府の無策、無能にいきど入りを感じる
>対応がむずかしい
>なぜなら選挙がすべてであり、
>もっともっとこうした企画によって
>意識向上が必要と考えます。
日本語になってませんねえ。
残っておられる方々のお気持ちは分かるつもりですが、万が一の医療をお望みの方は「医者の多くいるところ」に住むべきでしょう。
「おらが在所」に住む自由は「自らの高負担」によってまかなわれなければなりません。
それでも、ここに住みたい・・というお方が多くおられることに敬意を表します。
人間の尊厳の所以とはそこにあると愚考するからです。
限界集落の問題は日本の国作りの原点に行き着く問題だと思いますね。
日本の近代化にともなって切り捨てられてきた存在ですから。
しかもそこを疎かにする事によって都市の住民にも大きな影響が及んでくる。
今かの地に住んでいる人たちを自己責任で切り捨てることは、自分で自分の首を絞めるようなもののような気がします。
都市部から山村に至るまでの全てで日本列島は成り立ち生き続けてきたのですし、これからもそのどれが欠けても成り立たなくなると思います。
資本が投下されずに放置されている部分をどう血を通わせていくのか。
このままだとその部分が壊疽状態になり、少なくとも日本に人間が生きていけなくなるような気がします。
数百年の長きに渡り、自給自足でエコ生活を実践してきた日本人は、ここで原点を見つめなおす良い時期だと思います。
コストを踏まえた対応をすべきと考えます。
自分でリスクを取って住んでいる人にまで、ユニバーサルサービスを提供すべきとは思いません。また、人工林の荒廃を嘆くなら、植林による林業育成ではなく、雑木林の再生とその為の林業経験者の国家公務員雇用を訴えたいと考えます。昨今の動物による被害は、境界線を越えた人の進出に対しての自然の拒否反応ではないでしょうか、今こそ今後の1000年の計を考えるにいまこそ、決断をすべき時と考えます。
政府の無策、無能にいきど入りを感じる
対応がむずかしいなぜなら
選挙がすべてであり、もっともっとこうした企画によって意識向上が必要と考えます。