
今日8月26日は「火山防災の日」。1911年(明治44年)のこの日、日本で初めて浅間山に火山観測所が設置され、近代的な火山観測が始まりました。その歴史的な日を記念し、国民一人ひとりが火山災害への理解と備えを深めることを目的に、2023年に正式に制定されたものです。

ちょうどこの日に、群馬県嬬恋村にある 嬬恋郷土資料館 を訪れました。ここでは、1783年(天明3年)の浅間山大噴火によって壊滅的な被害を受けた鎌原村の歴史が、数多くの資料や模型を通じてわかりやすく展示されています。
天明大噴火は、日本史に残る最大級の火山災害のひとつです。旧暦7月8日(現在の8月5日)、山頂北側が崩れ、わずか数十分のうちに膨大な土石流が山麓の鎌原村を襲いました。当時570人余りいた村人のうち、93人だけが命をつなぎ、残る477人は一瞬にして犠牲となったと伝えられています。
資料館では、土石流に埋もれた村のジオラマや古文書が展示され、災害の恐ろしさを強烈に伝えていました。また、現地に立つ 鎌原観音堂 も訪れました。土石流の中でこの小さな観音堂に駆け込んだ人々が助かったことから「奇跡の観音堂」と呼ばれています。石段の下からは土砂に埋もれた村人の遺体も発見されており、静かに手を合わせると、当時の惨状と祈りが交錯するようでした。
さらに、この大噴火は局地的な被害にとどまらず、関東一円を火山灰で覆い、農作物の不作を招き、NHKの大河ドラマべらぼうで描かれた「天明の大飢饉」へと広がっていきました。火山災害が社会全体に波及し、長期的な影響を及ぼすことを改めて示した出来事でもあります。
今日が「火山防災の日」であることを重ね合わせれば、過去の災害を忘れず、未来への教訓として学び続けることの大切さを痛感します。火山は温泉や美しい景観など多くの恵みをもたらす一方で、時に人々の暮らしを一瞬で奪う脅威にもなります。その両面を受けとめ、備えを怠らないことが、私たちに課せられた使命ではないでしょうか。
時を同じくして、内閣府は富士山噴火のシミュレーション映像を公開しました。いちど視聴して、いつかは来る大災害に備えたいと思います。
浅間山・天明大噴火がもたらした江戸への被害
1783年(天明3年)4月8日、浅間山の噴火活動が始まりました。最初は小規模でしたが、5月26日に爆発、続いて6月18日にも大爆発が起こり、6月下旬以降はほぼ連日のように大噴火が続きました。そして、7月5日から7日にかけて、最大規模かつ最後の大爆発を迎えます。
7月7日の夜から8日にかけては、高温の火砕流(後に「吾妻火砕流」と呼ばれる)が北東方向に扇状に広がり、山麓を覆いました。その勢いは原生林を焼き尽くすほどではなかったものの、続く土砂流は一気に鎌原村を呑み込み、吾妻川へと雪崩れ込んでいきました。
現在、群馬県嬬恋村にある奇景「鬼押出し園」は、この天明大噴火の痕跡そのものです。噴火によって流れ出た膨大な溶岩や岩石が冷え固まり、荒々しい大地を今に伝えています。
この時、一時的に吾妻川が土砂で堰き止められましたが、やがて決壊して大規模な土石流となり、利根川に流入。下流域にまで甚大な洪水被害を及ぼしました。被害は実に深刻で、被災村数55、流死者1624人、流失家屋1151戸、田畑被害5055石という規模にのぼりました。

浅間山の噴煙や火山灰は、偏西風に乗って遠く江戸にも到達しました。7月6日の夕刻から江戸の町は異変に見舞われ、戸や障子が震えるほどの地鳴りが響き渡り、人々は恐怖に包まれました。
翌7日には空が霞がかかったように曇り始め、昼には火山灰が風に乗って降り始めました。日暮れ頃には降灰が激しくなり、まるで砂の雨のように降り注いだと記録されています。夜になると地鳴りとともに遠雷のような音が響き、江戸の町は不安と混乱に包まれました。
8日の朝には空が土色に染まり、雨とともに灰が降り続きます。午後になると再び地鳴りが起こり、その晩まで続きました。9日の夜には雨とともにようやく降灰が収まりましたが、江戸の町は灰に覆われ、大きな混乱を経験することになったのです。
浅間山の天明大噴火は、鎌原村の壊滅や関東一帯の大洪水、そして江戸までを覆った降灰被害と、広範囲にわたる甚大な災害をもたらしました。その影響は農作物の被害から「天明の大飢饉」へとつながり、社会全体を揺るがす大惨事となりました。
自然の猛威は、人の営みを一瞬にして奪うことがあります。嬬恋郷土資料館や鎌原観音堂を訪ねると、こうした歴史がただの「過去の出来事」ではなく、今を生きる私たちへの防災の教訓であることを深く実感させられます。